昨年の暮、母校の部活のOB会報に“想い出”を寄稿した。依頼されてから書き終えるまでの2週間。ボクは、眠れない夜を積み重ねた。とにかく70余年前の記憶が、あれも、これも、それも----とよみがえり続けて、なけなしの脳味噌が超コーフン症に罹ってしまったからだ。もちろん仕事など、手に着くはずもなかった。そういう顛末の拙文を、以下に転載する。ご笑読を----。

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「浦高応援団」断想                    砂川 肇(高17回・団長)

 1962年の春。吉永小百合主演の『キューポラのある街』が封切られたその日、ボクは浦髙に入学した。2~3日後、新入応援団員が浦和球場のアルプススタンドに呼び集められた。全員で、なんと9人も。みんな、入学式での校歌とエールに圧倒され、応援団の荘厳な振る舞いに「酔いしれて」しまった連中だった。

 10日ほどして、春の野球大会に臨んだ。結果は、ボロボロの5回コールド負け。その直後、先輩が怒鳴った。「お前らの根性が足りないからだ!」。ふつう考えるなら、不条理。なのにその怒声は、なぜかボクたちの心根に沁み入ってしまった。以後の3年間、退団する愚輩は誰もいなかったのだから。

 ああ、想い出した。強歩大会の折、先輩が、「応援団員は遅くとも50位以内! さもなくば」と鬼顔をした。だから、死ぬ覚悟で走った。ゼイゼイと。しかし結果は200位台の後半。翌日、半泣きを装って団室に出頭した。けれど、なーんだ、制裁は何もなかった。ちなみに3年生のときは、久喜女子高の塀の前だけ必死顔で走った。みんな、そうだったはずだ。

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 2年生の頃の記憶は、なぜか薄い。だが、合宿事件だけは鮮明だ。夏の終わりの校庭に、朝5時に起き出して、発声練習に勤しんだ。根性を入れ直すべく。と、塀に沿う家々から、憤顔の大人たちが湧いてくるではないか。「朝っぱらから、なにをやってるんだ!」と凄みながら。そうするうち、「ボールも飛び込む」「ゴミを撒く輩も多い」と、罵倒が“進化”していった。ボクたちは、ひたすら土下座するままだった。

『団報』を刊行したのも、2年生の時だったと思う。体裁はみごとなタブロイド版。中身は、“なぜ応援団するのか?”という不可知に、幼いながらも鋭く踏み込みつつ(笑)。確か、創刊号ないしは第一号と奥付を振ったはずなのだが、継承作業はあったのだろうか。こんな1963年は、舟木一夫の『高校三年生』とともに去った。

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東京五輪の1964年。3年生になったボクたちは、オリンピックなどどこ吹く風で、あらゆる競技に無手勝流で顔を出した。だから赤面の失敗談もある。バレーの会場で、ゲームの進行と応援のテンポがどうにも合わない。あれれ、と戸惑っているうちに、敵側からクレームがついた。我がバレー部顧問の先生が爆顔で近寄ってきて、「ばか野郎! 帰れ!」と怒鳴った。うはは、だったなあ。

夏の野球は、圧巻だった。3回戦まで勝ち進み、その年に優勝した大宮高校と相見えた。7対3で敗れはしたけれど、同校にコールド負けしなかったのは浦高だけだった。主将は長嶋という友人で、しかもサードを守っていたから、「サード、ナガシマくん」と例のアナウンス口調が響き渡るたびに、球場全体がワッと沸いたものだ。2年生ながらショートを守っていたのは、後の宗像監督だ。

晩秋のサッカーは、忘れもしない。浦和市高との決勝戦は、なんと延長戦にまでもつれ込み、その後半に1点を献上して悲敗した。全国大会に進んだ市高は、大差で勝ち上がり、優勝した。だから、あるスポーツ紙が、「埼玉の激闘こそ全国の決勝だった」と報じてくれた。そういう事実の一端に関われたことに、ボクは微かな誇りを抱いている。

3年生時は、とにかく多忙だった。『先哲叢譚』を“創刊”したし、熊高、川高、春高、松高に呼びかけて、仮称・応援団会議準備会も開催した。おまけにボクは柔道部員でもあったから、最後の公式戦として湘南戦にも出場した。なに、レギュラーになれなかったからだけの話なのだけれど。『平凡パンチ』が創刊され、“みゆき族”が闊歩していた、まあ麗しいと書くべき昭和の時代相を、ボクたちは颯爽と生きていた。

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さてはて。応援団断想は、これで終わらない。

卒業したその年からボクは、毎年の球場通いをひたすら続けてきた。一度たりと休んではいない。必ずバックネット裏に腰を据え、視線の3割を母校の野球に、7割を応援団諸輩の一挙手一投足に向けてきた。毎年のように卓越していく所作に感銘し、ほぼ必ずの敗戦のエールを唱和し、誰に何と言われようと目頭を滲ませ----。でも、そういうボクの恒年行事は、じつは現在系なだけではなかった。目頭を滲ませつつ、ボクは、スタンドに佇んでいるはずの“17歳だった自分”の影を、確認し続けてきたのだ。そう想う。

去年、ボクは70歳になった。もう、後がない。それは、わかっている。だから“あと何回、通えるのだろう?”と哀しみを口にしつつ、しかし今年もどこかの球場に出掛けていく。歳を重ねるごとに強く心に刻み込まれていく“かけがえのない経験”というやつを、密やかに身にまといながら。

ボクが17歳だったあの年、柴田翔の『されどわれらが日々』が芥川賞に輝いたのだけれど、内容は別としてその書名は、なぜか途轍もなく潔い意味をもって、ボクを支えてきた。言うまでもなく、「されどわれらが浦高応援団の日々」という文脈で。(〆)

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さて、わざわざ読んでくださった方々のために、若干の注釈をお許しいただきたい。

 強歩大会は、浦和から古河までの40数キロを“走る”ことが原則だった。特に、運動部系の生徒は。だから1年生の時は必至だった。2年生時は、先輩の目を盗み、後輩には睨みを利かせつつ、ズルくやった。3年生の時は? 1500人の最後列を、のんびりと歩いた。たばこを吹かしつつ。ああ、書いちゃっていいのかなあ----。でも、正直に物申したように、女子高の塀の前だけは全力! だって、淑女たちが教室の窓に鈴なりだったんだもの。

「サード、ナガシマくん」のくだりは、説明不要だろう。読売巨人軍の長嶋茂雄選手は、当時のボクたちにとっては神様以上の存在だった。じつはボクはタイガースのファンだったのだけれど。後の宗像監督---とは、以下のようなことだ。もうお分かりのように、母校の野球は、それは弱かった。だから2年生でレギュラーといっても、たかが知れていた。なのに2年生ショートの宗像選手は、後に大宮東高校の監督になって、なんと甲子園に行ってしまったのだ。世の中には、時として“珍事”が起こる。

 最後に。なぜボクは、毎年の球場通いを続けてこられたのか。答えは簡単。ほぼ毎年、1回戦負けだったからだ。1年にたった半日、寸暇を割くだけで事は済んだ。でも、だからこそ。10年ほど前だっただろうか。球場で『埼玉新聞』の取材を受けた折、ボクは声高に言い放っていた。「地方大会の1回戦にこそ、ドラマがあるのです!」