1957年。ボクが11歳の時。小学校の5年生だったけれど、まあ、遊んで喧嘩してちょこっとだけお勉強----の毎日だったなあ。
春先から早秋までは、校庭の裏を流れていた小川が、悪ガキたちの楽園。服はおろか耳の後ろまで泥だらけにしながら、鮒やドジョウや川蟹採りに明け暮れていた。もちろん、大漁したやつが大将。ということで闘いは熾烈だったけれど、人の好いボクは、いつも兵隊に甘んじていた----ウソだ。
深秋から早春までは、校庭と隣の製薬会社の間に広がる小ぶりな林が、われらの劇場だった。出し物は? 言うまでもなく「赤胴鈴之助」と「少年探偵団」さ。誰がエイヤッと少年剣士を演じるか、どいつがフームと明智小五郎に扮するかは、喧嘩勝負だった。その頃、まだ背の高いほうだったボクは、柔道や空手の初歩を齧っていたおかげもあって、無投票当選で主役の座にありついていた。
「あっかどーぉ、鈴之助ぇ♬」「ぼっ、ぼっ、ぼくらは少年探偵団♫」って、知らねーだろうなぁイマどきの若造は----。
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 1967年。黒顔可憐な微少年だったボクは、しかし時のきな臭い足音に踵を合わせつつ、他方ではこれでもかという自堕落さに身を任せて、その日暮らししていた。
 雀荘を拠点に授業に顔を出すのは、これ日常。たしか、新宿厚生年金会館近くにあった「キーヨ」というモダンジャズ喫茶にとぐろを巻いて、深夜になると、高円寺あたりの友人の下宿に転がり込んでいた。
 かぐや姫が名曲「神田川」を唄ったのは1973年のことだけれど、そこに描かれていた浮き世は、すでにボクらのものだった。(あえて書くけれど)便所や炊事場は当然ながら共同の、古びたアパートの三畳間。風呂なんて、ない。そこに、さ。いま想うと信じられないんだけど、大の男が6~7人も、おそらく積み重なって眠りこけてたんだ。
 腹が減ると、馴染みの中華屋に出掛けて、ラーメン餃子ライスを一丁! たしか、50円----だったはずだけど、ね。あ、ちなみにその頃、トイレに行ってナニする行為を、ボクたちは“北爆に行く”と口にしてた----不謹慎だけれど、そういう時代ではあったのさ。
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 1977年。ボクは、華のリーマン暮らしを謳歌していた。
 といっても、稼業は小雑誌の編集者。つまり、忙しいときは超多忙で、新聞紙を身に巻いて作業台に寝そべって、仮眠をとりつつ、原稿用紙やゲラと悪戦苦闘した。この頃、かつ丼と力そばを交互にする出前で命を保っていたボクは、ついにお洒落な行動に出たことがあった。やおら電話を取り上げ、「素そばの上にかつ丼の具をのせて、持ってきてくれぃ」。しばらくしてその店に足を運んだら、「新メニュー:かつそば!」という墨書きが壁に貼ってあった。コノヤロウ。
 そうするうちに、暇な日々がやってくる。この時とばかり、積んどいただけの本を読みゃあいいんだけど。そうはならないのが人間の性。で、職場の裏にあった「あいうえお会館」で、パチンコという名のギャンブルに勤しむ日々と相なる。そんなある日、クソ出の悪い台と丁々発止していたら、なんだか後ろ身がそぞろ寒くなってきた。背騒ぎを感じて振り返ってみると、なんとそこには、含み笑いをした社長が仁王立ちさ。
 根っから体育会系のボクは、あわてて直立不動して、うそぶいた。「あのぅ、そのぉ、玉を弾いていると、いい企画が浮かぶもんですから」。敵もさるもの。社長は、「そうか、じゃあ、来月号の企画、期待してるぜ」と捨て台詞して、さっそうと立ち去って行ったんだ。
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 1987年。零細企業の親父役もなにほどか身について、米国通いが佳境に差し掛かっていた。特にせわしなくボストンに出掛け、マサチューセッツ工科大学のメディアラボに闖入。なんとも不可解な未来図に脳味噌を悩ませる日々を楽しんでいた。
 こんな日々、友人になってくれたラボ所長のニコラス・ネグロポンテは、「珍しいプロジェクトがあるんだけど、ちょっと身銭を切らない?」「この起業に、少しでいいから投資しておいたら?」と助言を惜しまなかったのだ。でも、先を見る目がからっきしないボクは、
“デジタルなんて信じられな~い”という不毛な疑心暗鬼も手伝って、助言を聞き流して澄まし顔だった。
 いまだから、想う。あの時、そのたった一つにでもなけなしのゼニを投じていたなら----こんなちまちましたブログなんか、書いちゃあいない。フロリダの高級地に絢爛な別荘を構えて、絶世の美女数人を侍らせながら葉巻でもくゆらせていたはずなんだけどなぁ。どあほっ、このドジっ!
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 1997年の51歳の頃と、2007年の61歳の時のことも書こうと、しっかり準備万端だった。これはウソじゃない。でも、いやはや疲れ果てちまって。もうキーボードは歪んで見えるし、指は痙攣を起こすわ----で。
 不肖、砂川肇、本日71歳に到達いたしました。ご愁傷様。