前回に引き続く感じだけれど、逝かれた諸輩から学んだことを、重ねて書き記そうと思う。実際にお目にかかり、なにほどか手ほどきを受けた逸人たちの想いを、と言い換えてもいい。

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 建築家の川添登先生とは、1970年代の半ばにお出会いかなった。晩年とは異なって眼光鋭く、かつ類い稀な弁舌家だった。特にご自身固有のテーマに関わると、他者の発言を封じるほどの勢いで言葉を連ねられた。編集者としては、時々、ほんの少しだけれど、参ったなあと後ずさりする局面もあったほどだ。

 先生の当時のテーマというか鍵言葉は、「カプセル」だった。2つの含意を踏まえつつ。

 ひとつは、やや否定形で、単なる矮小な容れ物ものとしての器やパッケージを指していた。それはいわば、内側と外側とを呼吸させず血も通わせ合わない。だから、社会的な有機体ではない。人を、その内側に閉じ込めてしまう。砕いて書けば先生は、貧相な蒲鉾団地や出来の悪いクルマを念頭に置いておられたと思う。

 では、もうひとつは? 何よりも人間が、しなやかに自律し自発し合っていける、繭のようなシステムについて熱く語っておられた。柔らかく代謝し、増殖し、意思を通わせ合う。閉じつつ開き、開きつつ閉じてみせる。そういう意味では、たとえば新宿の歌舞伎町は、カプセルに包み込まれてこそ存在している街なのだ----(ああ、難しい書き方になっちまってるなあ)。

 そう思い出すにつけ、ふーむと考え込む。東京五輪のスタジアム案? デザインがユニーク? ところが予算が尋常じゃない? でも、さ。先生のカプセル論のような一端を組み込んで議論してみれば、もう少しは頷き合える結論を導けるんじゃないのかなあ。

 川添登先生。79日逝去。89歳。

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 川添先生とお会いしていたのは、研究室や会議室でだった。しかし同じく建築家の津端修一先生とは、現場で埃にまみれつつ教えをいただいた。最も記憶に残っているのは、「人間、500メートルくらい歩こうよ」というメッセージだ。これは、先生の失敗体験から導かれていた。

 先生は、愛知県春日井市にある高蔵寺ニュータウンの計画に関わられた。特に留意されたのはクルマの問題だ。家々からは離れたところに専用駐車場を設ける。だからこそ各々の住まいの近くでは、深夜の騒音は問題にならないし、昼間の子供たちも安心して遊べる----

 しかしその駐車場は、最も遠くなる人の家からは500メートル離れていた。結果、多くの居住者は、駐車場ではなく家の軒下の狭い道路端にクルマを置き続けた。先生の想いは、受け入れられなかったのだ。先生は、そんなクルマが連なる道筋にボクを導きながら、うーむと唸り続けておられた。

 クライネ・ガルテン、すなわち小菜園づくり運動に意を投じられたのも先生だ。何も、ただ暇にまかせて野菜をつくろうというのではない。先生の視線は、消費一辺倒になってしまった現代人の暮らしに向けられていた。だからこそ生産、すなわち自分で、ものを、つくる、という営みの意味を、ささやかにでも確認し共有し合いたい、と念じておられたのだ。

 おそらく1980年代の初めに出発した先生のこの活動は、やっと2000年代に入ってから、彩り豊かに実を結び始めた。そんな実の味を先生はどう味わわれたのか。残念ながら、晩年のお目通りはかなわなかった。

 津端修一先生。62日逝去。90歳。

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 理論経済学者の青木昌彦先生とは、そのご専攻よろしくとても怖い方だという触れ込みも手伝って、足元を震えさせつつお初にお目にかかった。いや、それよりも先生は、まあ昔話すれば、ある時代のある有力党派の理論的指導者として知られていた。姫岡玲治の筆名で書かれた論文は、ボクのような狼藉者であれ目を馳せざるを得ない逸考として著名だった。だから----

 先生に教えを乞うたのは、経済の多様性を解き明かす「ゲーム理論」とは何かについてだった。先生は、多彩に言葉を選び、じつに丁寧にことをほぐして、必読すべき文献もご紹介下さったと記憶する。しかし、じつのところボクは、その内容をしかと理解することはできなかった。はなからわが能力を超える難題を勝手に持ち込み、したがって当然のように討ち死にしただけだった。

でも、当時のボクは、その理論云々よりも、ある人びとが支える風土や文化の諸相に応じて多様な経済の方程式や実態があってしかるべきだ、と読める文脈に興味をもった。そしてそんな文脈は、以後、ボクの想いを底支えし続けた。いま、つたなくギリシャの動きを追う目線も、そこから発している。

視座とは何か? どう考えるべきことなのか? 先生から学び得たのは、そういう問いに身を纏わせ続けるべき意味についてだった。おそらく----と、いま改めてそう思っている。

 青木昌彦先生。米国時間715日逝去。77歳。