木幡和枝さんが亡くなった。享年72歳。ウィキには1946726日生まれと記されているから、10月生まれのボクとはわずか2か月違い。少なからず生き急がれたのではと、哀しみがつのるばかりだ。

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 ウィキの行間を補うとするなら、木幡さんは、何よりも卓越した通訳者だった。英語や日本語に堪能だったという事実をはるかに超えて。話者が口にする内容の社会文化的背景にかかわる造詣が、類まれだったという意味で。内容は、生命科学、芸術論、都市工学、生き方論----と、世のすべからくのジャンルに及んでいたのに。

 そして、通訳する“ふるまい”が妙味だった。ある折、ある話者が、かなり難質な単語を交えて話を区切った。木幡さんは案の定、通訳し始める前に、その単語をどんな日本語にすべきか話者に問いかけた。話者は納得顔で、背景から導かれる自分の想いのニュアンスを木幡さんに伝えた。何回かのやり取りがあった後、木幡さんはやおら通訳に入った。

 情景をお伝えできているか不安だが、こういうことはかなりな深学を前提にしてしかなしえない。なのにそういう美為をさりげなくふるまってしまう木幡さんは----とにかく圧巻だった。普通の通訳なら? 自前の語彙を機械的に置き据えて、さらっと次に進んでしまう。

 ちなみに、木幡さんが翻訳したライアル・ワトソンの『生命潮流』(工作舎/1982年)ほかは、だからこその名著として多くの人に読まれているのだとも思う。

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 木幡さんは、モダンアートの挑戦的なプロデューサーでもあった。マンハッタンの歩道で偶然お出会いした時のことを想い出す。

 木幡さんはその当時、クイーンズにあって閉鎖されていた公立小学校の校舎を活用する、アート・プレイス運動にかかわっていた。その名称は、PS1。パブリック・スクール第一、という旧名を拝借する展開は、素人のボクをも興奮させる内容だった。

 つまり、一般のギャラリーなら、誰かがどこかで制作した作品を運び込んで展示販売するだけだ。しかしPS1では、アーティストたちがそこに住み込んで、暮らしつつ制作に励む。費用は一切かからない。そして、作品が完成した暁に初めてお披露目する。いつまでに、どんな作品を、などといった不細工な制約はない----

 かなり熱く語る木幡さんの目を覗き込みながら、“いいなぁ”と感じたボクは、こう問うていた。「1年居候して、なにも生み出せなくても、かまわない?」。木幡さんは、微笑みつつひとことを発した。「もちろん。言うまでもなく!」

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 という文脈を広げれば、木幡さんは一つ筋の通った傑人だった。鮮やかな記憶がある。ある時、ボクの厚かましい求めに応じて、ビジネスにかかわる会議に足を運んでくださった。しかしその内容は、企業“戦略”やコミュニケーション“戦術”などといった訳知り語だけが飛び交う貧相なものになってしまっていた。

 しばらくしてコメントを求められた木幡さんは、こう言い放った。「私、軍事用語ってあんまり好きじゃないんです」

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 ボクが編集と執筆にかかわった『融合革新』(プレジデント社/1988年)で木幡さんは、次のように書いている(大方を捨てて部分を抜粋することは、心ならずも失礼に当たるのだが)。

〈まず、われわれの定義を再確認すること/みずからのうちにある時間、物質=記憶を振り起す/ロマンティシズム、よいではないか。それは、無識と自在への意思なのだから〉。そして、こう結ぶ。〈仮説よりも確信を根拠に/時代よりも歴史を震源に/意識よりも無意識に親しみを/1969年から始まった「私」の今です〉。

改めて引用して、ああ、と思う。1969年から----というくだりに、じつは木幡さんの未秘な思いが記されていたのだ、と。多くは書けないが、木幡さんは学生時代、J智のジャンヌ・ダルクとして勇名をはせていた。そう教えてくれたのは誰だったのか、いまはまったく定かではないのだけれど。

 この寄稿文集で、ぶしつけながらボクは、木幡さんを以下のように紹介している。

〈こばた かずえ/メディア・プロデューサー 既製の用語で、この人の活動を語ることは不可能だ。朝、テレビの仕掛けを終えるや、国際会議場に飛んで同時通訳をこなし、原稿用紙に向かって夕刻を過ごしてから、自前のパフォーマンス会場に顔を出す。スーパー・パーソンの代名詞がふさわしい〉